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中村天風


中村天風
中村天風

◆中村天風は実に数奇な人生を生きた人物です。天風は明治九年東京に由緒 ある家柄(彼の祖父は柳川藩主で伯爵)に中村三郎として生まれました。 ◆少年時代の天風は手のつけられない暴れん坊で柔道でずば抜けた強さを誇 り負けず嫌いの性格と正義感から喧嘩も絶えなかったといわれています。 25歳の時に日清、日露戦争で秘密情報部員(軍事探偵)として活躍し数々の 武勲をあげ帰国後、30歳にして当時は死の病であった結核にかかり生死の境 をさまよいました。 ◆行動的な性格から安静に養生するという医者の指示には従えず、自ら治療 策を求めてアメリカに渡り著名な宗教者、哲学者等を訪問し、コロンビア大 学で医学を学ぶ機会に恵まれたりもし、また著名な師を求めてヨーロッパも 彷徨しましたが病気は治らず、失望を重ねたあとカイロで偶然出会ったヨガ の大哲人カリアッパ聖者に連れられて行った、ヒマラヤの奥地でついにヨガ の哲理を悟りました。 ◆結果として病気は治り、悟りを得て日本に帰ったと言うことです。またイ ンドから日本へ帰る途中、上海にて孫文の革命運動に協力を頼まれて「中華 民国最高顧問」として参加しています。 ◆帰国してからは事業家となり、銀行頭取、会社重役の地位にありながら あるとき突然これらをすべて捨て去り辻に立って、人々を悩みから救い、苦 しみから解き放つための教えを説き始めたのでした。 ◆彼のすさまじいまでの体験に裏打ちされた理論は「天風哲学」として大成 されました。その門下には日本を代表する人材が集まりました。これを信奉 し、おしえを受けた人々は百万人を超えると言われます。代表的な人物の中 には、東郷平八郎、原敬、山本五十六、そして昭和天皇、北白川宮など皇族 の方まで含まれ、近年では、松下幸之助、稲盛和夫、双葉山、長島茂雄等 大勢の知識人、著名人が薫陶をうけています。

中井政嗣



中井政嗣CD

【とある大阪にある飲食店での話。】 そのお店のご主人、店を出したはいいのだが、暇で暇で仕方がない。 かといって黙って潰れていくわけにもいかない。 ご主人は考えた・・・ そしてとある行動に出た。 毎日毎日、からっぽの岡持を持って。 住宅街を忙しそうに右往左往走り回ったそうだ。 すると、住民の間でうわさが立ってきた。 「あそこのお店、おいしいんじゃないのか?」 「そんなに忙しいなら、うまいのか?」 やがて注文が殺到、お店は大繁盛しだしたそうだ。 ウソみたいな話なのですが、実話です。 このご主人、忙しいフリをしたんですね。 それを見たお客さんは、勘違いをはじめる。 そして、忙しい振りがいつしか本当に忙しくなって行くんです。 結果としてそれが評判を呼び、大成功につながった。 ところで 皆さんは、「千房」というお好み焼き屋さんをご存知ですか? 東京からだと恵比寿ガーデンプレイスなどの立地に出店 お店の内装もおしゃれなお好み焼き屋さんです。 味もさることながら、細かい気配りが行き届いたサービスと、 お好み焼き屋らしからぬ店内の雰囲気が、若者にウケているお店です。 皆さんもお気づきの通り上記のお話は、この「千房」の社長 中井政嗣氏の実話に基づく体験談です。

松下幸之助



松下幸之助CD

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━      〜第一話:幼少/少年時代:生まれから丁稚奉公編〜 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆幸之助の生まれ 彼は、明治27年11月27日、和歌山に生まれた。 旧家の末っ子に生まれ、幸之助が小学生に成るまでは、資産家の家族として なにひとつ不自由ない暮らしぶりであった。 ◆父の失敗と大阪への丁稚奉公 しかし、幸之助の父政楠が米相場に手を出し失敗したことで彼の人生は一 変する。幸之助は、満9歳(小学校四年生)にして小学校を中退し、親元を離 れ大阪に丁稚奉公に出る事となる。以後5年余り、幸之助は、もっとも多感 な少年時代を丁稚として商家で暮らす事となる。その暮らしが幸之助の商才 を目覚めさせた。 ◆タバコでの副収入を思いつく ある日、幸之助が丁稚奉公先の五代自転車店で自転車の修繕をしていると、 お客に「ちょつと煙草(たばこ)を買うてきてんか?」と言われる事が、日に 度々(たびたび)あった。彼はそのたびに、汚れた手を洗い、一町先の煙草屋 まで一気に駆け出していた。 彼は、そのうちにふと思いつき自分の給金で先に20個ずつ買っておき、 その場ですぐ渡せるようにした。 その当時、人気であったタバコは20個入りで1ケース買うと一個のおまけが ついた。多い時では、そのタバコでのもうけが給金の四分の一に達する月 もあったそうだ。 ◆初めての単独営業とお客様の信頼 また彼が満13歳になった頃、「自転車を見せてくれ」と電話があった。 店主は彼に行って言こいと言った。常づね自分で商売をしたいと思っていた 彼は、絶好の機会とばかり、先方の家に行き、一生懸命に説明をした。 するとお客さんは、「おまえはなかなか熱心な子や。買ってやるから、一割 引いておくれ」と言った。 彼は喜んで飛んで帰り、そのことを主人に話した。ところが、一割も引いて 売るわけにはいかないと言う。かれは先方のお客のことを思い、「そう言わ んと、負けてあげてほしい」と泣いて頼み、主人をあきれさせた。 結局、自転車は5分引きで売ることになったが、彼はその客から「お前が五 代にいる限り、自転車は五代から買おう」と言われるほどの信頼を得た。 『参考:画伝 松下幸之助 道より』 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━        〜第二話:独立から松下電気の創業へ〜 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆幸之助満22歳で独立を決意する。 その後、大阪電灯へ入社し7年間の会社員生活を経て大正6年(1917年)6月 当時幸之助は、体が弱く、風邪引きなどはしょっちゅうのことで、結婚はし たものの将来に一抹の不安を感じていた。そのために早く独立をし、将来の 方針を立てなければという思いと「実業で身を立てよ」という父の言葉を思 い出し、彼は思い切って改良ソケットを作ろうと独立を決意した。 ◆創業の仲間たちとの別れと困窮 大阪電灯時代の同僚、林伊三郎氏と森田延次郎氏の二人が「松下君がやる なら、われわれも手伝おう」と言って、仲間に入ってくれた。 また、小学校を卒業したばかりの義弟、井植歳男氏(後の三洋電機創業者) 満14歳を妻の郷里から呼び寄せた。 しかし、開発したソケットがまったく売れず。同僚二人はやめてしまった。 生計にも苦しみ、幸之助が風呂に行くのに、風呂銭がないので、夫人は話題 をそらし、風呂のことを忘れさせたという逸話さえ残っている。 ◆困窮期を切り抜ける そんな生活のなか、扇風機の部品1000点の受注が舞い込んでくる。 幸之助は、井植少年と共に年末に休みを返上してその受注に全力を注いだ。 その結果、納期ギリギリに納める事ができた。 また、翌年にはその部品の出来がよかった為に2000点の受注が入ってくる。 ◆松下電気器具製作所を創立する 幸之助夫妻と井植少年と三人が、夜中まで作業しても追いつかず、はじめて 四、五人の従業員を雇い入れる。そうして商売が軌道に乗り始めると、松下 電器の商標を定めたいと考えた。ある日、石清水八幡宮に参詣した時にもら った破魔矢を見ていて、ふと、この矢と松下の頭文字Mを組み合わせたらど うであろうと思いついた。 こうして完成したのが、はじめての商標「M矢のマーク」である。これには どんな障害をも突破し、目標に向かって突き進もうとの願いがこめられてい た。なお、このマークは創業当時から作ってきた配線器具を継承している松 下電工株式会社が復活させたが、現在では、「三松葉」の社章に統一した。 『参考:画伝 松下幸之助 道より』 来週の第三話へ続く ━━━━━━━━━━━【松下幸之助の伝説◆曩━━━━━━━━━━━ 木野親之さんが松下幸之助さんに「一円玉が道に落ちていても誰も見向きも しないが、借りに5分5厘の利息で百年定期にしたとすると211円になる。 この利息を3割にすると、なんと2479億円になる。一円を無視したらゼ ロだが、普通に活用すれば211円うまく活用すれば2479億円になる」 という話を従業員にしていると話すと、「ええ話やな」と相槌を打った後、 次のように続けられたという。 「しかし、きみ、それだけでは足らんで。一円を無視してもゼロになるだけ やが、人間を無視したら怨念が残って、マイナス無限大になる。人間を大切 にして、光を当てて、全ての人に感謝すれば、無限大のたからに変わるんや で」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━        〜第三話:はじめての経営者として歩み。〜 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆社員同士の親睦会を創設 第一次世界大戦が終結すると経済界は、戦争景気の反動で不況に陥っていた。 その後一時的に景気は好転したものの、不況はさらに深刻化の様相を呈し始 めた。そこへさらに株式市場の大暴落が起こり、戦後恐慌が突発したのであ る。企業倒産が続発し、街に失業者があふれ、労働組合運動はしだいに過激 になり、社会不安が一挙に高まっていった。 その中で、松下電気器具製作所はむしろ順調に販売を伸ばし、一見何事もな く推移していた。だが、幸之助は、この激動期にのぞみ、「松下電気が将来 発展していくためには、全員が心を一つにしなければならない」と考えた。 そこで、自分をも含めた全従業員28名を会員とする「歩一会」を結成する。 名称は「全員が歩みを一つにして、一歩一歩着実に進もう」との思いからつ けられたものである。 その後、歩一会は従業員の精神指導、福祉増進、親睦慰安などを目的に、運 動会や演芸会などの行事を催して、全員の一致団結をいっそう強固にするう えで大きな役割をはたした。 ◆電話での発注に感激する。 深刻な不景気にもかかわらず、盛んに発展をつづける松下電気器具製作所の 経営ぶりは、取引先の目を見張るものであった。しかし、工場にはまだ電話 さえ引けてない有様で、一人前の工場というにはまだほど遠いものがあった。 そんなさなか、電話申し込みの抽選にあたり電話が架設された。 その電話のベルが鳴り、はじめての電話注文が入ると、電話を受けた幸之助 は、まわりの夫人や店員たちに「おい、えらいこっちゃぞ。電話で注文が来 たぞ」と感激して話した。その時「ついに一人前の工場になった」という喜 びが、全員の胸に広がった。 ◆税金に悩んで、悟ったこと 当時、税金の査定期になると、いつも申告通りですむのが常で、幸之助も毎 年ありのままに申告をしていた。ところが松下電気器具製作所の売り上げが 年々増えているのに驚いたのか、「ずいぶんもうけているな。一度調査に行 こう」と突然言われた。 幸之助は毎年正直に申告したので、何ら動じることなく調査にのぞんだ。 ところが、見解の相違があって、申告以上に利益が上がっていると言う。 そうなると幸之助は心配になった。二晩ほど眠れぬままに思案しているうち に、ふと「自分の金だと思うから、悩みも起きるのだ」と悟る。 翌日三日目の調査の時に、「よく考えて見ると、このお金は全部国家のもの です。必要なだけ取って下さい」と申し出た。 すると、「そんなにまでしなくても」ということになり、調査も簡単にすん でしまったのである。以後、税金に対してガラス張りでのぞんだが、この体 験で、幸之助は、一つの企業観を得た。 つまり「企業は社会の公器である」と言う松下哲学の基礎である。 『参考:画伝 松下幸之助 道より』 来週の第四話へ続く ━━━━━━━━━━━【松下幸之助の名言】━━━━━━━━━━━━             『見方を変える』 何事もゆきづまれば、まず、自分のものの見方を変えることである。 案外、人は無意識の中にも一つの見方に執して、他の見方のあることを忘れ がちである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━    〜第四話:電池ランプの開発と住友銀行との信頼関係〜 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆電池ランプを考案/販売する かつて五代自転車店に勤めていた幸之助は、自転車のロウソクの灯火が風で すぐ消えて困った体験を持っていた。この時代にも一応は、電池式ランプも あったが、寿命は三時間ほどで、故障も多く、実用性にとぼしかった。 そこで幸之助は、この電池ランプの改善を思い立った。それから半年間の間 に数十個も試作品を作った末、従来品に比べ、約10倍の30時間から40時間も 点灯しつづける砲弾型電池ランプを作りあげた。しかしこの画期的な製品を どこの問屋も取り扱ってくれない。窮した末に、直接小売店に置いて回り、 実際に点灯試験をした上で、結果がよければ買ってもらうことにした。 そのために、「1万個もバラマまけば、反響はあるだろう」と覚悟した。 この社運をかけた実物宣伝が効を秦し、その真価を知った小売店から次々と 追加注文が入ってきて、2,3ヶ月後には月2,000個も売れるようになった。 ◆力だめしの彌勒石(みろくいし) 松下は、とある商店と電池ランプの総販売元契約を交わしていた。しかし、 その主人は、「これは、一時的な流行品で3年の内に売り切ってみせる。」 と幸之助に語ったが、実用品として永久的な需要があると考えた幸之助は、 次の新商品について自社方針での販売をする為に、その主人の提案である 1万円の賠償金(当時白米10kgで2円52銭)を了承した。 主人は、驚き「一万円の金を僕がタダで儲けたことになるから、君を招待 しよう」と幸之助を高野山に招待した。 幸之助は、その壮厳さに胸を打たれた。そして奥の院に行くと、弘法大使 が唐から持ち帰ったという運だめしの石を納めた祠(ほこら)があり、そ れには石を棚に上げた人は運が強いといういわれがあった。 さっそくためしてみようということになった。しかし、だれも持ち上がら ない。ところが、なかでもいちばん力の弱そうな幸之助がやると、軽々と 持ちあがったのである。あまりの不思議な出来事に、幸之助は一万円のこ とも忘れて、ひそかに期待していた角型ランプの売り出しは成功するに疑 いなしとの信念をかためた。 ↓の中段で紹介されている場所のようです。 ⇒http://www.a-namo.com/guest/akisan/kouyasan/siseki/siseki.htm ◆住友銀行西野田支店と取引を開始する 当時、松下が主に取引をしていたのは十五銀行であった。そこへ松下の近 所に住友銀行西野田支店が開設されて、たびかさなる勧誘に来る。一年ほ どして、あまりの熱心さに、幸之助は「二万円まで当方の必要に応じて貸 付をしてくれるのなら、取引を始めてもよい」と応えた。この前例のない 申し入れに、担当者は困惑し、引き上げたが、数日後やはり取引を先にし てほしいと言ってきた。幸之助は、これは住友が松下を真に信用している か否かの問題であると考え、始めの主張を繰り返した。この件は支店長に 引き継がれたが、支店長の竹田淳氏は、幸之助の真意を汲み取り、熱心に 奔走してくれた。その結果、異例の約束のもとに、取引が始まったのであ る。 それから二ヶ月後になり、金融恐慌が突発し、十五銀行が閉鎖された。 それに困って、幸之助が二万円の件を問い合わせると、約束通り履行する と言う。幸之助は、「住友精神の真髄にふれる思いがして、強い感銘を受 けた。」と後に語ったと言う。 ━━━━━━━━━━━【松下幸之助の名言ぁ曩━━━━━━━━━━━ 『心の持ち方で結果が変わる。楽観か悲観か、積極か消極か。心のあり方如 何で、物の見方が変わってくる。』 ◆運がいい人は、楽観で積極的な人が多いですね。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━    〜第五話:ナショナルブランド誕生と不況時の松下伝説〜 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆新型ランプに始めて「ナショナル」の商標をつけて発売する 新型ランプを考案するかたわら、その名称について、あれこれと考えていた。 ある日、新聞を見ていた時、幸之助の目にふと「インターナショナル」と言 う文字が飛び込んだ。妙に印象に残ったので辞書を引いてみると「国際的」 という意味があった。念のために、「ナショナル」を引くと「国民の、全国 の」と書いてあった。幸之助の思いにぴったりの意味である。 幸之助は、「名は体をあらわすのたとえもある。”ナショナル”と名づけて、 国民の必需品にしよう」と決心し、この「ナショナル」を商標として出願登 録した。待望の新型ランプが完成した。幸之助は、さっそく「ナショナル」 の商標を冠し、「ナショナルランプ」と名づけて、販売計画を練った。 製品の実用性に確信を持った幸之助は、販売に際して、一万個を販売店に 無料提供するという思い切った売り出しを行った。 これが成功し、翌年三月、売上は月三万個にも達するほどの伸びを示した。 ◆世界恐慌の勃発により、独自の打開策を指示する その後、新本店と新工場が完成し、松下は順調に発展しつづけていた。 ところが、日本での景気後退に加えて、ニューヨーク株式市場の大暴落を契 機に、世界が狂乱するほどの恐慌が勃発した。いわゆる「暗黒の木曜日」で ある。 この大恐慌で、日本経済は痛烈な打撃を受け、深刻な混乱に陥った。工場閉 鎖や首切りが一般化し、街には失業者があふれ、会社不安が一挙に高まった。 松下も売上が止まり、倉庫は在庫でいっぱいとなった。病気静養中の幸之助 に、幹部から「従業員を半減し、この窮状を打開しては」との進言があった。 その時、幸之助は、ふと別の考えがひらめき、「生産は半減するが、従業員 は解雇してはならない。給与も全額支給する。工場は半日勤務にし、店員は 休日を返上し、ストックの販売に全力を傾注してほしい」と指示した。 幸之助の方針が告げられると、全員に歓声がわいた。一致団結の姿が生まれ 全店員が無給で販売に努力した結果、二ヶ月後にはストックは一掃され、逆 にフル生産に入るほどの活況を呈するに至った。 『参考:画伝 松下幸之助 道より』

本田宗一郎


本田宗一郎の講演

おやじさん(本田宗一郎氏)との日々←お薦めHPより抜粋
http://www.geocities.co.jp/MotorCity/2790/honda.html


【小さな事ほど大きく怒られた】

  ●Z360のLPL(開発総責任者)の時の夏の事です、試作車が出来ていよいよ
    おやじさんに乗って貰う事となり、当時荒川のテストコースに夜、特別に招待し
   「社長、お願いします!」と乗って貰いました。

      おやじさんは全開で上流の方に走り去って行った 、我々は期待して待っていたしかし
    なかなか帰って来ないので「おかしいぞ!」と思っていた矢先、バイクだけが戻ってきた
    コース管理のYさんだった。

      駆け寄った我々に「向こうの端で車のタイヤが飛んで、、、」我々は一瞬血が
    凍りついた、そして何か口々にわめきながら直ぐ近くの車に飛び乗り駆けつけた。

      事故の地点に着く、闇の中に傾いて止まっている車の横の草むらにヘッドライトに
    照らされにおやじが立っているのを見た時、やっと我を取り戻した、
    「社長大丈夫だったですか?」との問いに
   「おう!、、、タイヤはあっちの方へ行ったぞ!、、」との威勢の良い声に我々は一斉に
    草むらへ飛び込んだ。タイヤを見つけて帰って来た時、もうおやじさんは帰った後だった。

    その夜はまったく眠れなかった、社長に怪我のなかった安堵感と、明日なんて謝ろうか
    という考えで一杯だった。

      次の日の朝、Z360のテストPLのkさんと気もそぞろで社長室の前でどんなに
    怒られるか?と首を覚悟で待っていた、そこへ元気に顔を出したおやじさんに、    
    どうもすみませんでした、、、」と言うと肯いて直ぐ「おう!あれ出来たか?」と
    全く関係のない部品の状況を聞かれた、一瞬何がなんだかわからなくなった、
    完全に拍子抜けだった。

      後で上司に報告をしたら「そうなんだよ、おやじは本人が気が付ついていない事は
    やたら怒るけど、本人が良く判って反省している失敗は決して怒らないんだよ!」と。

    私はおやじさんの偉大な面を一つ体得した。


 
【本当に社員の事を考えていた社長だった】

    ●ある日曜日の昼過ぎの事だった。 突然守衛所へおやじさんから電話がかかって
      来た。
       「おい、今、テレビを見ていたら志木市(研究所のとなりの町)で火事だと
      言ってたが、うちの従業員は大丈夫だろうな!直ぐ調べなさい!もし居たら
      出来るだけの事をしてやれ!」
        守衛所は大急ぎで電話をかけまくって場所を突き止めたところ、本当に丁度
      海外出張中の人のアパートが全焼して仕舞っていた。
    
        勿論、十分な対応をされた事になったが、その事より普通「会社は大丈夫か?」
      はよくある話だけど「うちの従業員は大丈夫か?」と休みの日にわざわざ電話してくる
      おやじさんに、本当に人間としての温かさを感じて胸が一杯になった。

安岡正篤


「平成」という言葉の考案者が安岡正篤氏だと言われています。

また、氏は終戦の詔書(玉音放送)の草案にも加筆しているといわれ、天皇
陛下や国家の重鎮からの信任が厚く戦中戦後の日本において大変重要な役割
を果たされました。

特に戦後の日本は「敗戦国」という立場から、国中が自信を喪失しました。
そんななかで戦勝国・アメリカから進駐軍を迎え入れ、日本の文化や伝統を
残しながらも焼け野原の上に経済復興を果たさねばならない大変微妙なかじ
取りが必要とされたのです。

当時の自民党歴代宰相の指南役を勤めていたのも安岡氏なのです。

今の日本や経営者に必要なのは、小手先のテクニックや口先の議論ではなく、
骨太な助言ではないでしょうか?

今、氏のメッセージを学ぶにはこのCDがおすすめです。

【入門・安岡正篤の帝王学】日経BP社発行 

一倉定

社長がやるべき次代を担う新事業や新商品のつくり方、育て方、価格の決め方。

競合他社に勝つ市場導入の着眼点と新旧主役の入れ替え等を披露などの内容です。

99年に逝去された一倉 定(いちくら さだむ)氏は、「事業経営の成否は99%社長で決まる」との信念から 社長だけを熱血指導をしてきた異色の経営コンサルタントでした。
 社長を小学生のように叱りつけ、かと思えば社長と共に悩み、親身に会社を育てる。 その厳しく情熱溢れる指導に多くの社長が師と仰ぎ、今なお絶大な人気を得ています。

青木定雄

青木定雄DVD「挨拶が変えた」

サービスと格安の運賃で、業界慣習や規制に挑戦。常にマスコミが注目する業界の“風雲児”企業。
1960年ミナミタクシーとして創業。事業の成長と買収などで企業規模を拡大、77年より現社名。
98年には東京進出を果たす。様変わりする規制緩和に合わせ、全国47都市での増車計画を推進中。
グループ企業は、エムケイ産業、エムケイ石油、三和交通など9社。
韓国・南海島生まれ。韓国籍。1943年、兄を頼って京都へ。立命館大法学部中退。
56年出光興産系のガソリンスタンドを始める。63年地元の桂タクシーを買収。77年に
両社を合併させて社名をMKとし、会長に就任。95年会長職を退き、オーナーとしてグループ各社を指導。

●職歴・経歴
1957年4月(株)永井石油を創立。60年ミナミタクシー(株)創立、
77年桂タクシーとの合併により、エムケイ(株)代表取締役会長に就任。
95年、エムケイ(株)をはじめとしたMKグループの会長職を退任し、現在はMKグループオーナー。
タクシー運転手へのサービス意識の改革を迫り、徹底した教育研修を実施、加えて安全に
サービスができるよう生活環境を整備し、職業に対する誇りを持たせることに重点を置き、
社内制度を充実させる。学士ドライバーの採用を他社に先がけて導入すると共に、
高能率・高賃金制度を推進する加えて、乗客に対する挨拶の完全励行、深夜ステーションを
開設しての24時間営業体制、身障者優先乗車運動、救急タクシーの設置などの施策、制度は
ユニークで、業界はもとより広く産業界から注目を浴びる。94年「第7回ソフト化大賞」、
98年「第7回一家賞」、98年「第14回企業広報賞」優秀賞などを受賞。近畿産業信用組合の会長も務める。

“何故、お客のことを第一に考えないのか”“古い体質を打ち破らない限り発展はない”など、
独自の発想から生み出される講演は注目大。

孫正義



孫正義

ソフトバンクグループの創業者 1957年8月11日生まれ 九州有数の進学校である久留米大学附設高校を中退後 アメリカ、サンフランシスコのセラモンテ高校に編入 大学検定試験に合格後ホーリーネームズ大学に入学 カリフォルニア大学バークレー校、経済学部に編入。 「20歳代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低1000億円のため、40代でひと勝負かける。 50代で完成させ、60代で継承させる」という人生50年計画を19歳で立てる。 アメリカ留学中に考案した「音声機能付き他言語翻訳機」を当時シャープ専務の佐々木正に約1億円で売り込む。 翻訳機で得た資金を元に米国にて会社を設立。 日本で、流行していた「スペースインベーダー」を、ブームが沈静化した後に大量に安価で買い取り、 アメリカのコーヒーショップでリースして大もうけした。 ※ここで注目なのは、安価な船便でなく高額な航空便を利用した点にある。 在日韓国人3世であり日本名の安本と言う姓を名乗っていたのを孫という先祖代々の姓を名乗るようになる。 「パソコンソフトの卸事業」⇒後のソフトバンクを起こす。 シャープの佐々木から個人資産を担保にしてもらい資金1億円を第一勧銀麹町支店から調達する。 上新電機と独占契約を結ぶ。当時日本一のソフト会社ハドソンと独占契約。 この2社を押さえたことで飛躍的に業績を伸ばす。 83年、検診で重い慢性肝炎にかかっていることが判明。 再起不能と宣告されるほどの重症だった。以後3年間入退院を繰り返す。 大森康彦氏を社長として迎え入れ会長に退いて療養生活に入る。 その療養中に会社は、10億円の借金を抱えることになる。 また大森氏と若手社員の不調和音から優秀な社員達が大勢引き抜かれる。 孫は、療養中に「NCC BOX」を発明。 この発明で累計20億円を稼ぎ、借金を返済する。 その後順調に成長を遂げ、ソフトバンクの株式を公開。 1995年大規模な米国企業の買収に動く1年間に企業買収に費やした金額は約30億ドル その中に創業間もないYAHOOが含まれていた。 翌年米国YAHOOと合同でYAHOOJAPANを設立。 2001年Yahoo!BBサービスを開始。 この年から出版業から通信業へと大きく舵を切ることとなる 2004年日本テレコムを買収 2006年ボーダフォン日本法人を買収